紫陽花の日 彼は、あの部屋へと急いでいた。 荒い呼吸をしながら濡れた道路を蹴った。 小雨で髪も衣服もすこし濡れていたけれども、彼は少しも気にかけなかった。 扉を開けると、部屋の少し入ったところに彼女が見えた。 青くて長い髪に青いリボンを結んだ彼女が。 微笑を浮かべて彼女は言った。 「来てくれたのね」 彼は、うれしそうな彼女の笑顔を見て、微笑み返した。 「今日は、ずっといてくれるのよね」 やや目を背けながら問いかけた。 彼は、彼女特有のかわいげのある、そういうところが好きだ。 「さあ、あがって」 部屋に通すと、彼女はテーブルに着くように言った。 「ちょうど、あなたが来るころに焼き上がったわ」 微笑して、また目を背けて、彼女は言った。 「フォンダンショコラよ。あなたが好きだって言ってたから」 彼は、うれしそうにお礼を言った。 「よろこんでもらえたなら」 少し赤らめて 「食べさせてもいいかしら」 彼は、頷いて返した。 彼女は、焼き上がったばかりの菓子をナイフでちいさく切ってフォークで彼の口に運んだ。 「あーん」 ほおばると溶けたほろにがいチョコレートが口に広がった。 「おいしい?」 透き通った青い目で彼の顔をのぞき込むように見ながら尋ねた。 彼は、微笑みで感想を述べると くす、と彼女もまた気持ちを笑みで表した。 口に運ぶことを楽しんでいるうちに皿の上のチョコレート菓子もすっかりなくなった。 「あら」 彼女は、なにかに気がついたように彼の口もとを見つめた。 「ついてるわ、チョコレート」 彼は、彼女ならきっと、といじわるな心持ちでその言葉を待った。 「あなたがいいなら、わたしが取ってあげるわよ」 やはり視線を合わせられないまま問うた彼女に、頷いてお願いした。 甘い匂いが彼の鼻に香った。 彼女はちいさな子どもがごちそうを食べるときのような歓喜の気持ちで彼のくちびるをき れいになめ取った。 「おいしい」 ぺろりと舌なめずりをして、その表情は恍惚を浮かべていた。 食卓を片付けると、二人は、見つめ合いながら言葉を交わした。 しばらく話していると、雨がはげしくなったのがわかった。 窓辺に近寄って彼女は尋ねた。 「雨がひどくなってきたみたいね。今日は泊まっていくといいと思うの」 月明かりに照らされて映えた青い髪を揺らして続けた。 「それにきっと二人の夜は長いんだもの」 彼の答えは、確認する必要もなかっただろう。 なぜならその日は、紫陽花の花が一際きれいな、ふたりにとって特別日なのだから。